劉カイ(りゅうかい)とは、漢の皇族・宗室かつ宗族、および非皇族。約3名ほど存在する。
- 劉璝 : 字は幼玉[1]。別称は「劉珍」[2]。江夏郡竟陵県[3]の人。益州牧の劉焉の末子で、劉範・劉誕の異母弟[1]、劉瑁(叔玉[1])・劉璋の同母弟[1]。212年に兄の劉璋の命で、遠縁筋の劉備と戦うが、敗れて、雒城[4]に逃れ、甥の劉循[5]とともに籠城したが、翌年に落城した。その後の劉璝の動向は不詳である。
- 赫連璝 : 漢姓名は「劉璝」。トルコ系匈奴屠各(屠客)部鉄弗(赫連)氏族の夏漢の世祖武烈帝の赫連勃々(劉勃)の子、赫連延(劉延)・赫連昌(劉昌)・赫連倫(劉倫)・赫連定(劉定)・赫連満(劉満)・赫連安(劉安)・赫連助興(劉助興)・赫連謂以代(劉謂以代)・赫連社干(劉社干)・赫連度洛孤(劉度洛孤)・赫連烏視抜(劉烏視抜)・赫連禿骨(劉禿骨)の兄。414年に太子に定められ、大将軍となり長安に駐屯した。しかし、424年に父が太子璝を廃嫡して、秦王に降格させ、その異母弟である酒泉公の赫連倫(劉倫)を新太子に定めた。激怒した赫連璝は異母弟の赫連倫を攻撃した。魏郡高平県[6]にある統万城を包囲して、激戦の末にこれを討ち取った。しかし、同じく異母弟の太原公の赫連昌に大敗して、討ち取られて、晒し首となった。
- 劉翽 : 宋漢(劉宋)の皇族。太宗明帝(劉彧)の第11子。太子劉昱(後廃帝)・劉法良・安成王の劉準・劉某・東平王の劉智井・晋熙王の劉燮(劉爕)・邵陵殤王の劉友・江夏王の劉躋・武陵王の劉賛の弟、新興王の劉嵩・始建王の劉禧の兄。はじめは南陽王に封じられ、後に随陽王に改封された。しかし、部将の蕭道成によって宋漢が滅ぼされて斉が建国されると、舞陰県公に降封された。しかし、まもなく謀反を企んだという口実で、兄弟とともに逮捕投獄されて、処刑された。