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Hohenzollern

ホーエンツォレアン家の紋章

ホーエンツォレアン家独語:Haus-Hohenzollern)とは、ドイツ南西部のシュヴァーベン地方を発祥とするアレマン人[1]貴族・君主の家系であり、ドイツ帝国およびルーマニア国王も出した一門である。「ホーエンツォレアン朝」とも呼ばれる。

家名は居城のツォレアン城を由来として、14世紀にフランケン家のみが「ツォレアン」から「ホーエンツォレアン」に改めた。なお通常の「ホーエンツォレルン」は舞台ドイツ語の影響を受けた表記であり、現代ドイツ語の発音では「ホーエンツォレアン」または「ホーエンツォラーン」と表記するほうがより近い。

概要編集

ホーエンツォレアン家の最古の記録は、1061年にベルトルト・フォン・ライヒェナウ(ベアトルト・フォン・ライキェナオ、Berthold von Reichenau)の『年代記』によって、「ツォレアン家」のブルクハルト1世(ブルクハント・ブルヒャルト・ブアキャートとも呼ばれる)の名が初めて登場する。ブルクハルト1世はシュヴァーベン中南部(ツュービンゲン付近)を支配するツォレアン伯であった。

1191年に、同じアレマン貴族のホーエンシュタウフェン(シュタウファー)朝であり神聖ローマ皇帝・ハインリヒ6世によって、ツォレアン家のフリートリヒ3世(ブルクハルト1世の曾孫、フリートリヒ1世の孫、フリートリヒ2世の子)が、ニュルンベルク城伯に封じられ、フリートリヒ1世としてフランケン地方の領地も得たことから、ホーエンツォレアン家の歴史がはじまった。1214年または1218年に、ツォレアン家の一門による領地の分割が行なわれ、フリートリヒ1世の長男のコンラート1世がフランケンの領地とニュルンベルク城伯の地位を得てフランケン・ホーエンツォレアン家の祖となり、次男のフリートリヒ4世(ヘヒンゲン家としてはフリートリヒ2世)は発祥地のヘヒンゲン(ヘキンゲン)近郊のツォレアン城とシュヴァーベンの領地とツォレアン伯爵の地位を得て、シュヴァーベン・ツォレアン家の祖となり、ヘヒンゲン家(ヘキンゲン家とも)およびジクマリンゲン家(ルーマニア・ツォレアン家)の分家が出た。

フランケン・ホーエンツォレアン家編集

ブランデンブルク=プロイセン家編集

前述のフリートリヒ1世(フリートリヒ3世)の長男・コンラート1世を祖として、フランケンの領地とニュルンベルク城伯の地位を得て、フランケン家は「ツォレアン家」から「ホーエンツォレアン家」と改称した。この家系はスイスのアレマン人[2]貴族のハプスブルク家とは盟約関係にあった。

1415年にフリートリヒ4世(ブランデンブルク辺境伯としてはフリートリヒ1世)の代のからは選帝侯(選挙侯)としてブランデンブルク選帝侯領を治めるようになる。1525年に一族の傍流であるアルプレヒト1世がカトリックからプロテスタントに改宗しドイツ騎士団を廃して、プロイセン公国(神聖ローマ帝国の領外)を建国して、初代のプロイセン公となった。

しかし、その子のアルプレヒト・フリートリヒに男子がないまま絶えると1618年には本家のブランデンブルク選帝侯のヨーハン・ジギスムントスウェーデン王・グスタフ・アドルフ2世の岳父)がプロイセン公領を継承してこれを合併し、ブランデンブルク=プロイセン侯国が成立した。三十年戦争の際にはフリートリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)が戦場を指揮した。

1660年の北方戦争の講和条約である『オリヴァー条約』によりポーランドリトアニア連合からホーエンツォレアン家のブランデンブルク=プロイセン公国が独立し、ポーランドの影響力を完全に排除することに成功する。選帝侯のフリートリヒ3世は『スペイン継承戦争』で、神聖ローマ帝国の皇帝であるオーストリアのハプスブルク家に傘下として参戦した。その報酬は「ブランデンブルク=プロイセン王」と称して、昇格することを得たのである。1701年にフリートリヒ3世は「フリートリヒ1世」として戴冠し、ホーエンツォレアン家のブランデンブルク=プロイセン王国が誕生することになった。

18世紀にフランスの名士であるヴォルテール(フランソワ・マリー・アルーエ)と親交が深く、フランスのプロテスタントであるカルヴィン(カルヴァン)派だったフリートリヒ2世(別称は皮肉屋のフリートリヒ大王)は華やかなオーストリアのウィーンおよびフランス文化に心酔する啓蒙専制君主として君臨し、父子でありながら確執関係にあった「軍事王」と謳われた亡父のフリートリヒ・ヴィルヘルム1世の偉業を受け継いで[3]、軍事国家による絶対主義下においてブランデンブルク=プロイセン王国を富強した。彼は、かつての許嫁者だったハプスブルク家の女帝のマリー・テレーゼことマリア・テレジア(ハプスブルク=ロートリンゲン家ロートリンゲン家)の祖であるフランツ・シュテファン1世と結婚)と対峙して、『オーストリア継承戦争』やポーランド南西部のシュレージエン(シロンスク)地方を巡る『七年戦争』に連戦連勝して、足元を固めて着々とドイツ東部を中心に次々と領地を広げていった。

フリートリヒ2世は子がないために、後を継いだその甥のフリートリヒ・ヴィルヘルム2世(アウグスト・ヴィルヘルムの子)はロシア帝国・オーストリア帝国オーストリア=ハンガリー帝国)とともにポーランド分割を行なった。

1862年、ビスマルクが宰相になると、ヴィルヘルム1世の治世下で、ブランデンブルク=プロイセン王国を中心として、ドイツ統一を成し遂げ、1871年にブランデンブルク=プロイセン帝国北ドイツ帝国)が誕生して、「小ドイツ主義」を挙げて、オーストリアを排除した。ドイツ帝国は列強の一員となった。『第一次世界大戦』でオーストリア帝国とともにイギリスとフランスに敗北すると、ヴィルヘルム1世の孫で「カイザー」と謳われた皇帝・ヴィルヘルム2世(フリートリヒ3世の子)がオランダに亡命してホーエンツォレアン家のドイツ支配は終焉を迎えた。ヴィルヘルム2世の末裔は現在もドイツで生活しており、現在の当主はヴィルヘルム2世の玄孫であるゲオルク・フリートリヒであり、貴族の末裔としてドイツの議員を務めているという。

アンスバハ家編集

ブランデンブルク選帝侯のアルプレヒト・アキレスの子・ゲオルク1世を祖とするが、その子のゲオルク・フリードリヒの代で断絶した。

クルムバハ家編集

ブランデンブルク選帝侯のアルプレヒト・アキレスの子であるアンスバハ=バイロイト辺境伯のフリートリヒ5世の子・カジミーアを祖とするが、その子のアルプレヒト・アルキビアデスの代で断絶した。

バイロイト家編集

ブランデンブルク選帝侯のヨーハン・ゲオルクの子であるクリスツィアン・フリートリヒを祖とする。1763年にフリートリヒ1世の代で断絶した。

シュヴァーベン・ツォレアン家編集

ヘヒンゲン家編集

フリートリヒ1世(フリートリヒ3世)の次男のフリートリヒ2世(フリートリヒ4世)を祖とする。発祥地のヘヒンゲン近郊のツォレルン城とシュヴァーベンの領地とツォレルン伯爵の地位を得て、この家系は「ツォレアン家」として在続した。

この系統はシュヴァーベン地方の先祖代々のツォレアン城を中心とする領地を統治し続けた。この家はフランケンのホーエンツォレアン家と異なりプロテスタントに改宗せずカトリックのままで通していたが、1869年にフリートリヒ・ヴィルヘルム・コンシュタンツィン(フリートリヒ・ヘルマン・オットーの子)の代に同族のブランデンブルク=プロイセン王国に合併されることで、ヘヒンゲン侯は廃国にされた。フリートリヒ・ヴィルヘルム・コンシュタンツィンには子のローテンブルク伯のフリートリヒ・ヴィルヘルム・カールとローテンブルク伯のヴィルヘルム・フリートリヒ・ルートヴィヒ兄弟がいたが、父の後を継げず子もなかったため、ヘヒンゲン家の嫡流は断絶した。

シャルクスブルク家(メルケンベルク家)編集

「メルケンベルク家」とも呼ばれる。14世紀前後にヘヒンゲン家のフリートリヒ5世の子であるメルケンベルク伯・フリートリヒ1世を祖とする。1408年に曾孫のフリートリヒ5世の代で断絶した(その子のフリートリヒ6世は夭折した)。

ジクマリンゲン家(ルーマニア・ツォレアン家)編集

1576年にシュヴァーベン・ツォレアン家(ヘヒンゲン家)から分家して、成立された家系でその祖はカール2世カール1世の子)である。1849年に本家のブランデンブルク=プロイセン王国に合併されることで、ジクマリンゲン侯は廃国にされた。1866年にジクマリンゲン家のカール(ジクマリンゲン家の最後の君主で、一族のブランデンブルク=プロイセン王国の宰相であるカール・アントンの子)がルーマニア公のカロル1世として迎えられ、1881年にカロル1世はルーマニア国王に即位した。以後も1947年に王制が廃止されるまで、カロル1世の直系がルーマニア王家として続いた(最後の国王・ミハイ1世(ミキャエル1世=ミヒャエル1世)は現在も存命である)。なお、ドイツのシュヴァーベン地方にいるジクマリンゲン家の現在の当主はカール・フリートリヒフリートリヒ・ヴィルヘルムの長男)である。

Zollern-Schloß

ツォレアン(ホーエンツォレアン)家の居城

脚注編集

  1. 東アレマン系シュヴァーベン人のこと。
  2. 西アレマン系バーデン人のこと。
  3. フリートリヒ2世は若いころに近侍である近衛騎兵少尉のハンス・ヘルマン・フォン・カッテたちとともに父祖の地であるドイツ南部のシュヴァーベン地方に逃れたが、父が派遣した大佐のローホ率いる軍勢に連れ戻された。息子の行為に激怒したフリートリヒ・ヴィルヘルム1世は廃嫡を申し渡し幽閉して、ハンス・ヘルマンを処刑した。しかし、ハプスブルク朝のカール6世(マリー・テレーゼの父)が調停して、フリートリヒ2世は廃嫡をまぬがれた。しかし、後年にフリートリヒ2世は恩人のカール6世の娘のマリー・テレーゼと婚約を破棄されたことを一方的に恨み、彼女の女帝としての宣言を断固として拒否して宣戦布告をした(『傭兵の二千年史』(菊池良生/講談社現代新書/2002年)頁191~192)。

関連項目編集