日本通信百科事典
登録
Advertisement
Daryl Hall & John Oates (2020)

2020年のダリル(左)とジャン(右)

Daryl Hall & John Oates

2011年のダリル(左)とジャン(右)

Daryl Hall & Robert Fripp

1980年当時のダリル(左)とフレィップ(右)の貴重なコラボレーション

ダリル・ホール英語:Daryl Hall、1948年10月11日 - )は、アメリカのミュージシャンで、『ダリル・ホール&ジャン・オゥツ[1]のボーカル・ギタリスト・キーボード担当&音楽プロデューサー。

本名はダリル・フランクリン・ホール(独語?:Daryl Franklin Hohl)で、アメリカ東部のペンシルベニア州のチェスター郡ノース・コベントリー生まれ、モンゴメリー郡ポッツタウン(フィラデルフィア[2]郊外)出身のドイツ系アメリカ人ペンシルベニア・ダッチ)で、父はフランク・ホール、母はベティー。義妹はキャシー・フィリップス。父は合唱団のプロの歌手であり、母は声楽の教師であった。

概要[]

彼の家系はカトリックであり、ドイツ南西部のシュヴァーベン人(東アレマン系)の移民で、5歳からピアノを演奏して、10歳前後のころの彼は読書やポエム(詩)と空想(夢想)が大好きで、スポーツが苦手な情緒不安定かつ繊細なひ弱である少年だった。

同時に、両親が多忙で、知人の黒人家庭に預けられて、黒人音楽であるR & Bとソウル・ミュージックに接触されて、徐々に嵌っていった。しかし、その子供たちからは「君は目が碧くて、肌が白いね」とからかわれて、多少の劣等感を持ったともいわれる。

さらに、社会に全くなじめず学校および地元でも喧嘩ばかりの問題児だったようである。ダリルは下校すると自転車で毎日、黒人が集う有色人種のゲットーに遊びに行ったようである。ダリルはそこで黒人の友達と交流しながら、上記の黒人音楽であるR & Bとソウル・ミュージックを楽しんで体で覚えたことで、ミュージシャンの卵としての出発だった。1963年の9月に14歳でオーウェンJ.ロバーツ・ハイスクールに進学した。

1966年の9月に17歳で地元にあるテンプル大学音楽学部に入学し、ソウルシンガーの先駆者であるケニーギャンブルとレオンハフのセッションミュージシャンとして働いていた。1967年暮れにあるバンド活動で交流した際に、新入生である後の相方となるジャン・オゥツ(John Oates)[3]と運命の出会いして、バンドの演奏の最中に過激派の襲撃事件があり、ダリルはジャンとエレベーターに避難して、意気投合をして、現在にいたるビジネスのベスト・パートナーとなった。ジャンとともにミュージシャンとして、毎朝アパートの前の階段に座って歌の練習をしてたという。後にジャンとともに大学を中退して、プロのミュージシャンを目指した。

ダリルはジャンと音楽活動を続けたが、同時にサェラ・アェレンと出会い、結婚はせずに同棲生活をした。彼女とは公私にわたる、パートナーであった[4]

1969年6月に大学の同級生であるアシュケナジム・ユダヤ系のブレィナ・ルブレィンと同棲生活を経て結婚したが、敬虔なカトリックだったダリルはユダヤ教を信仰する彼女と折り合いが悪く、1972年に離婚をした。その後ロシア系アメリカ人のアンドレア・ザブロスキーと同棲して、1984年1月8日[5]に息子のダレン(Darren)を儲けた。2009年12月22日にアマンダ・アスピノゥルと結婚して、彼女の2人の連れ子とともに一緒に暮らしたが、2016年にアマンダと離婚した。

1972年に24歳でフィラデルフィアの『アトランティックレコード』と契約して、ジャンと『ダリル・ホール&ジャン・オゥツ』としてデビューを果たした。1974年に『アトランティック・レコード』と解約した。1976年代ニューヨークの『RCAレコード』と契約して、念願のブレイクを果たすが、その後は低迷した。その間に、イギリスの『キング・クリムゾン』のリーダーであるロバート・フレィップとコラボ合作である『Sacred Songs』を1980年に発表した。

このことがきっかけでダリルは、地道にレコーディングしたことが実り、黒人音楽であるR & Bの要素を貪欲に採り入れたスタイルでソウル&ブラック・ミュージックのテイストで再ブレイクをした。

要するに「ブルー・アイド・ソウル」と呼ばれるジャンルのミュージックの一つである。1985年に、ライヴエイドに出演した。このライブは元『テンプテーションズ』のメンバーであるエディ・ケンドレィックス、デヴェィッド・ラフェィンらがゲスト共演している。

その後、個人的な事情で1991年に『ダリル・ホール&ジャン・オゥツ』の活動を停止したが、その間にソロで活躍したり、1994年に『FIFAワールドカップ』の公式テーマ曲を歌った。翌1995年に活動を再開をして、現在も精力的に活動を続けている。

2005年に野生動物に寄生するダニから感染するライム病により一時ライブをキャンセルしたが、現在では完治したようである。

彼の演奏はファンキーかつ魔法のお伽話に満ちた不思議な魅力が備わっていることである。おそらく、ダリルのルーツである繊細なメロディで奏でるドイツ音楽(クラシック)の影響も若干あり、それを黒人音楽であるR & Bの要素も合わせたものであろう。

また、彼はリーダーシップがあり、ジャンの補佐を得て、人種を問わずに明るく寛大で、サービス精神による愛情に溢れたフレンドリーな対応で多くのジャンルの人々と接して、幅広い交友関係を持っている。同時にファンサービスに全力を注いで魅了する特性を持っている。

趣味は、カトリックの聖書を読むことと邸宅のリフォームなどである。また、若いころのダリルはスリムでハンサムだったが、近年は多少肥えて髭を生やしている風貌である。

ソロ曲[]

  1. 『Sacred Songs』(1980年)※ロバート・フリップとの合作。
  2. 『Three Hearts In The Happy Ending Machine』(1986年)
  3. 『Soul Alone』(1993年)
  4. 『Can't Stop Dreaming』(1996年)
  5. 『Laughing Down Crying』(2011年)
  6. 『Before After』(2022年)

脚注[]

  1. 『Daryl Hall & John Oates』、略称:*ホール&オゥツ』。
  2. フィラデルフィア市民の通称はPhilly「フェィレィ」。
  3. 父方の祖父はアイルランド系イギリス人、祖母はモロッコ系スペイン人、母方の祖父母はシチリア系イタリア人。
  4. しかし、2001年末に30年以上続いた両人の関係は終止符を打った。
  5. 1985年生まれの説もある。

関連項目[]

  • チャールス・デハント : 「ダリル・ホール&ジャン・オゥツ」結成以来のサックス奏者。
  • 佐野元春 : 「日本のダリル・ホール」と呼ばれ、ダリル同様に読書やポエム(詩)と空想(夢想)が大好きで、スポーツが苦手な情緒不安定かつ繊細なひ弱である少年で、現実と夢の世界の区別ができなかった。「レンコンチップ」が大好物。
  • 杉真理 : 上記の弟分の佐野と同様に「日本のダリル・ホール」と呼ばれ、サービス精神に溢れている。
  • 古内東子 : 『ダリル・ホール&ジャン・オゥツ』の大ファンで、『Crazy For You』で、『One On One』をカヴァーした。古内の姉が佐野元春のファンでもある。
  • まつもと泉 : ダリルのファン?
  • ドイツ系アメリカ人 : ダリルのルーツ。
Advertisement