FANDOM


Otto der Große

オットー大帝

オットー1世大帝独語:Otto I. der Große、912年11月23日 - 973年5月7日)は、ドイツ神聖ローマ帝国の初代皇帝(在位:962年 - 973年)、東フランク王国の王(在位:936年 - 973年)。ザクセン朝リウドルフィング朝/オットー朝)第2代目の王。ザクセン公としては、オットー2世と呼ばれる。

生涯 編集

生い立ち 編集

912年、ザクセン公のハインリヒ(後の東フランク王のハインリヒ1世捕鳥王)とマツィルデ(リンゲルスハイム家)との間の子として生まれる。父のハインリヒは先にハテブルクという女性を妻にしており、庶兄の タンクマー(Thankmar)を儲けていた。しかし、父はマツィルデの美しさに魅せられ、ローマ教皇の命もあって先妻のハテブルクに対して未亡人という理由で、強引に離縁して修道院に放り込み、長男のタンクマーを廃嫡した。

919年、父のハインリヒが国王として選出される。同じ年に同母弟のハインリヒ(後のバイエルン公のハインリヒ1世)が誕生した。生母はこの弟を溺愛した。

929年、クヴェトリンブルクにて、イングランド王国のウェセックス朝の王女のエトギタ(エドワード長兄王の娘)と結婚した。このとき、父はオットーを自らの後継者としてドイツ諸侯に認めさせた。オットーは新妻にマクデブルクの地を「朝の贈り物」(モルゲン・ガーベ、婚資)として贈った。その地こそは彼にとって青春時代を過ごした思い出の土地であり、後に東方へ進出する際の最重要拠点となるものである。930年と931年、マクデブルクで長男のロイドルフ(またはリウドルフ)と娘のロイトガルト(リウトガルト/リウトルト)が生まれた。

戴冠と相次ぐ反乱 編集

936年、父のハインリヒ1世捕鳥王が没すると、ドイツ諸侯はオットーを自分たちの王として戴くことを承認した。ただ一人、生母のマツィルデのみはこれに反対し、同母弟のハインリヒこそ国王に相応しいと主張した。

オットーはカール大帝に倣い、戴冠式をアーヘン大聖堂(仏語:エクス・ラ・シャペル)で挙行した。そこで塗油の儀を受けることにより、自分がカール大帝の遺志を継ぐ者であることを世に示した。

ドイツ諸侯を「わが盟友」と呼んで対等に扱った亡父のハインリヒ1世とは異なり、オットー1世はあくまで上に立つ者としての姿勢を貫いた。それに不満を持つ諸侯も多く現れはじめ、938年から翌年にかけて反乱が続発した。世から忘れ去られていたオットー1世の異母兄のタンクマーや、同母弟のハインリヒが反乱軍の旗印として掲げられた。主な加担者は、フランケン公のエーベルハルト・ロートリンゲン公のギーゼルベルト・バイエルン公のエーベルハルトなどであった。

苦戦するオットー1世のもとにシュヴァーベン公のヘルマン1世(コンラーディン家)が救援に駆けつけ、これによって彼は危機を脱した。その結果、異母兄のタンクマーと反乱の加担者たちは戦死・亡命した。同母弟ハインリヒのみは生母のマツィルデのとりなしで、このときは咎めを受けなかったが、941年に再び同母兄の暗殺を計画を目論んだために、助命されたものの修道院に幽閉されることになった。

一族による統治政策 編集

オットー1世は当主を喪ったフランケン公領を自らの直轄地とした。危機を救ってくれたヘルマン1世に対しては、その幼い娘のイーダを未だ10歳未満の嫡子のロイドルフと婚約させ、将来の王妃の地位を約束することによって彼の労に報いた。実は、これは将来シュヴァーベン公領を息子の手中に入れることを目的としたもので、オットー1世の新たな政略の一環であった。このように公領をすべて自分の近親者に治めさせることで、再度の反乱を防ぎ、王国の統一を図ろうとしたのである。その後944年には、娘ロイトガルトの婿であるヴォルムス伯およびフランケン公のコンラート1世赤毛公カロリング朝の分家であるザーリアー朝の中興の祖)にロートリンゲン公の地位を与えている。

947年、オットー1世は生母ののマツィルデの嘆願を聞き容れて、同母弟のハインリヒを許した。ハインリヒは同母兄のオットー1世に恭順を誓い、以後はその片腕として活躍するようになる。オットー1世は彼にバイエルン公の地位を与えた。こうして、本来の直轄領であったザクセンに加え、フランケン・シュヴァーベン・ロートリンゲン・バイエルンの全ての公領はオットー1世を中心とするリウドルフィング朝とその近親者の掌中に収められた。

イタリア遠征と太子との反目 編集

妻のエトギタの死後、オットー1世は太子のロイドルフを傍らに置いて自分の補佐をさせたいと考えた。しかし、ロイドルフのほうでは父の言いなりになることを極度に嫌った。彼は妻のイーダとともに岳父のヘルマンから受け継いだシュヴァーベンの公領などに身を置き、自分の名前で貨幣を発行したり、スイス東部のザンクト・ガレン修道院の文献の整理を奨励したり、施療院などの公共施設を整えたりと、自分の力で政治を行なうことを示そうとした。

950年、イタリアの王位継承権を持つイタリア王のロターリオ2世の未亡人のアデライーデ(ブルグントのアーデルハイト)がオットー1世に救いを求めてきた。イタリア王の地位を狙うイヴレア辺境伯のベレンガーリオ2世の息子のアダルベルト2世に結婚を迫られ、それを断ったために幽閉されているというのである。ロイドルフは父の許可を得ないまま、いち早くアルプス山脈を越えて、アデライーデの救出に向かった。これを聞いたオットー1世は太子の行為に激怒し、同母弟ハインリヒと女婿のコンラート赤毛公に後を追わせ、自らも大軍を率いてイタリアへと遠征する。結局、ベレンガーリオ父子は敗れてアデライーデは無事救出された。このとき、オットー1世はカール大帝のようにローマで帝冠を戴きたいと望んだが、それは果たされなかった。

オットー1世は勝手な行動をとった太子を許さず、ロイドルフが果たした多大な功績は全て同母弟のハインリヒと女婿のコンラート赤毛公のものとされ、彼らは充分すぎるほどの褒賞を与えられた。コンラート赤毛公は名誉を剥奪された義兄のロイドルフに同情的であり、敗れたアダルベルトともよしみがあった。コンラート赤毛公はオットー1世にベレンガーリオ父子の許しを乞い、新たに任じられたイタリア総督の地位を辞して、父子がその椅子を得られるようにとりなした。結局、オットー1世はこれを容れたが、それはイタリアをも自らの近親者に治めさせようという計画に反するものであり、この件での対立以来、オットー1世とコンラート赤毛公との岳父・女婿との関係の折り合いは以前ほど良好なものではなくなった。

951年、オットー1世は自分の娘と同年のアデライーデを後妻に迎え、イタリア王を名乗った。翌952年、彼女が男児ハインリヒを産むと、その子を正当な世継ぎとするつもりであるかのような態度を見せ始めた。太子のロイドルフは当然面白く思わず、憂さを晴らすつもりか大規模なクリスマス・パーティーを主催した。その席には妹のロイトガルトとその夫のコンラート赤毛公も招待されていた。

太子のロイドルフの反乱 編集

953年、王国全土を巻き込む大反乱が勃発した。首謀者はオットー1世の太子のロイドルフと女婿コンラート赤毛公であった。王国内でも最も力を持つ2人の王族に、前年のクリスマス・パーティーに招かれた者たちを始め、ドイツ諸侯の多くが味方した。オットー1世は同母弟のハインリヒともども窮地に陥るが、翌954年、ハンガリーから当時は非キリスト教徒であったハンガリー公&大酋長(ジュラ)のタクショニュ(アールパード朝)が率いるアジア系遊牧民族のウゴル系マジャール人(ハンガリー人)の軍勢が侵入してきた。ハインリヒは、「異教徒どもは太子のロイドルフらによって国内に導きいれられたものであり、反乱に加担すれば国の領土を分け与えようという提案を売国奴どもから受けている」という情報を流した。これが功を奏し、太子のロイドルフとコンラート赤毛公は味方を失い、レーゲンスブルクに追い詰められた。両人は無実を訴えつつ籠城を続けていたが、飢饉が起こったためやむなくオットー1世に降伏した。太子のロイドルフは廃嫡され王位継承権とシュヴァーベン公を、コンラート赤毛公はロートリンゲン公をそれぞれ剥奪され、蟄居処分となった。

こんなときに、オットー1世は自らの近親者によって統治を固めるという政策の脆弱さを知る。代わりに、ケルン大司教となっていた末弟のブルーノにロートリンゲン公の統治権を与えたのを契機として、聖職者による統治政策に切り替えることにした。オットー1世は末弟のブルーノを自分の秘書として登用した。また、かつて先妻で廃嫡されたロイドルフの亡き生母のエトギタに「朝の贈り物」として与えたマクデブルクに大聖堂を建立し、そこを拠点にキリスト教の布教を口実にして東方へ進出することを試みた。

レヒフェルトの戦い 編集

955年、国内に侵入したハンガリーのアジア系マジャール人たちはまだ撤退しておらず、レヒ河畔のアウクスブルクを攻撃する。軍勢を率いてオットー1世は戦いを挑むが、戦局は不利であった。蟄居処分中であった女婿のコンラート赤毛公が救援に駆けつけたことで事態は好転し、オットー1世はマジャール人を撃退することに成功する。この際にコンラート赤毛公はこの激戦の中で戦死したが、この『レヒフェルトの戦い』の勝利でオットー1世は「キリスト教国を異教徒マジャールの禍から救った聖なる戦士」として称えられ、ヨーロッパ中の注目を浴びるようになる。神聖ローマ皇帝の帝冠への大いなる一歩であった。

神聖ローマ帝国の誕生 編集

961年、イタリアの統治を委せていたベレンガリオとアダルベルトの父子がローマ教皇のヨハネス12世を攻撃し、教皇はオットー1世に救援を要請した。オットー1世は後妻のアデライーデとの子で、夭折したハインリヒの同母弟わずか7歳のオットー2世を自らの共同統治者として戴冠させると、再びイタリアへ遠征し、ベレンガリオ父子を成敗した。10年前とは異なり、充分にその力を周囲に認められていたオットー1世は、962年2月にローマにおいて教皇から皇帝の冠を授けられた。「神聖ローマ帝国」の国号が使用されたのは13世紀以後のことで、まだ後のことであるが、欧州史ではこのときをもって神聖ローマ帝国の誕生としている。

晩年 編集

ローマ皇帝位を手にしたオットー1世は、その後はイタリアに滞在し、この国の統治に腐心した。967年、末子のオットー2世を共同皇帝に任命し、972年には東ローマ帝国から皇女のテオファーヌ(ギリシャ語:テオファノ、東ローマ皇帝ヨハネス・ツィミスケス1世の姪とされている)をその妃として迎えた。テオファーヌは洗練された東ローマの文化をもたらしたことで、東フランク王国に多大な影響を与えた。

後は後継者たちに任せて、オットー1世は973年、最も思い入れがあるトューリンゲンのメムレーベン宮殿で、62歳の生涯を閉じた。その亡骸はマクデブルクへ運ばれ、先妻のエトギタの隣に葬られた。

帝位は末子のオットー2世が継承したが、1002年にその子のオットー3世が急死してリウドルフィング朝の直系が断絶し、1024年に帝位を継いだ同母弟のハインリヒの孫のハインリヒ2世も嗣子がないまま死去し、ここでリウドルフィング朝は断絶した。ハインリヒ2世の後を継いで皇帝に即位し、コンラート2世ザーリアー朝のコンラート赤毛公とロイトガルトの曾孫である。

子女 編集

エトギタとの間に1男1女を儲けた。

  • ロイドルフ(930年 - 957年) : シュヴァーベン公、後に義弟のコンラート赤毛公と反乱を起こして、父に鎮圧され廃嫡された。
  • ロイトガルト(931年 - ?) : ロートリンゲン公のコンラート赤毛公と結婚。曾孫は神聖ローマ皇帝・コンラート2世として即位した。

アデライーデ(ブルグントのアーデルハイト)との間に3男1女を儲けた。

  • ハインリヒ(952年 - 954年)
  • ブルーノ(953年)
  • マツィルデ(954年 - 999年) : クヴェドリンブルク女子修道院長
  • オットー2世(955年 - 983年) : 神聖ローマ皇帝

スラヴ人(西スラヴ系)貴族の娘との間に庶子が1人いる。

  • ヴィルヘルム(929年 - 968年) : マインツ大司教(954年 - 968年)

関連項目 編集

先代:
ハインリヒ1世
ザクセン公
936年 - 961年
次代:
ヘルマン
先代:
ハインリヒ1世
東フランク王
936年 - 962年
次代:
-
先代:
-
神聖ローマ皇帝
962年 -973年
次代:
オットー2世